2022年09月

●管さんの弔辞はよかった。「国葬」の翌日の新聞の朝刊に全文が載っていた。真情が溢れていて、このゴタゴタの中、反対者に対しても強く訴えるものを持っていたと思う。それで普段あまりしないツイートというものをした。あまりにもいい弔辞だったので逆に作為を感じるのだが、そんなものを相殺するほどの真情だったという内容だ。われながらひねくれている。

●政治家が自分の書いた文章を世の中に発表する前に、別の目に閲読させるのは自然なことだし、閲読した者はした者で、この文章の訴求力にすぐ気づいただろうから、これだけ世論の反対の多い政権としては、これを利用してイメージアップを図ろうとするのは当然だ。私の憶測では、もとは料亭だった箇所を焼き鳥屋に直し、庶民に縁遠い感じをなくす。あとはひょっとしたら若い世代が多く弔問に訪れたことを強く印象づけるような手直しがなされたかもしれない。もちろんこれは無責任な放言であって何の確証もない。しいて言えば私の編集者としての文章に対する感覚だけが根拠だ。

●今、こんなことを書いているが、いまだに「国葬」の動画は見ていない。とくに見る気もない。反対というほどの気持ちもない。16億円かかったと言って反対している人もいるようだが、私は16億円という額がこの場合どの程度のものなのかサッパリわからないので何とも言えない。政権与党だったらそのぐらいの税金は日常的に使っていそうな気もするが、どうなんだろうか。

●伝統の裏付けがなく、宗教儀礼の出る幕もない「国葬」が諸外国にどんなに薄っぺらなものに見えるか、それだけは気がかりでないこともない。日本という国のアドバンテージはそういう点にしかないのではなかったか。


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●今回の演劇祭ではいくつかの演目を観たが、さかさに振っても出ないものをなんとか絞り出し、感想を一人称のまとまったテキストとして書いてみたいと思ったのはこの作品とあともう一つだけである。偶然どちらも竹中香子主演で、名演だった。しかしこの作品の第一場と第五場(と第二場少し)のえせ関西弁の女だけはいかにも記号的でステロタイプで別人のように精彩を欠いていた。市原佐都子は名優をだいなしにする名人だ。

●終演後、感想シェアトークなるものの場が設けられた。ロビーに十数脚の椅子が丸く並べられていた。ここに座れというのだろうか。興味はあったが、おそれをなして後ずさり、早々に退散した。感想なんてそんなにすぐ出てくるわけがない。せめて三日間は経たないと何も言えないのではなかろうか。というわけで、今日がその三日目である。

●岸田戯曲賞の選評でKERAに「もはや我が道を好きなように行ってください」と言わしめた長台詞も健在である。ただし今回は長台詞のほとんどが事前録音の口パクだったと思う。いくらプロの俳優でもあれを全部覚えて舞台上で喋るのは現実的ではないのだろうか、と思ったら、案外そうではなく、作劇上の要請によるものだった。一幕五場の芝居だったが、第一場の白人のセーラームーンの映像などが出てくるところの声はすべて主人公の女(竹中香子)のものだった。一人で何役もやるのだから台詞は録音によるしかない。妙なフランシスコザビエルも小さな聖母マリアもなんだかよくわからない女も、映像はすべて主人公の分身だということだ。開演前に幕へ投影されていた奇妙に歪んだ巨大な顔しかり。

●今回は戯曲集の出版もなく、私の記憶力も最低なので、一度観ただけでは思い返して再構成などできない。たしか第一場が森の中のようなところでの映像との対話、第二場が右翼の女と左翼の女の講釈の映像、第三場が海軍士官と蝶々夫人らしき日本の黒髪の女、第四場がこの芝居の出演者と演出家がリモートで会話するメタなシーン、第五場が森の中のようなところでの息子の葛藤、だったと思うが、自信はない。(ちなみに私はプッチーニのオペラ『蝶々夫人』については何一つ知らない。)ただでさえ記憶があいまいで、さらに関心が偏っているものだから、この稿は作品に忠実なレビューにはなりようがない。私がこの作品から受け取ったものは人種やジェンダーの問題でも西洋コンプレックスでもなく、もっぱら演出家と俳優の支配=被支配関係から来る不信と不満の劇のみだったらしい。本当は演出家は録音など使ってほしくなく、俳優はロボットのように長台詞を完璧に記憶して演出家の意図を寸分違えず舞台上で発声するべきだと思っているのだ。それが不可能だからこそ、口パクが必然であるかのような作劇をする。

●翻訳を介して多言語間を行き来することでどぎつさが薄まっているかもしれない。それがいいのか悪いのか、前進なのか後退なのか、洗練なのか鈍化なのか、よくわからない。『バッコスの信女』がムキ身の鈍刀だとすれば今回の『Madama Butterfly』は演舞用の銘刀で、グサグサ刺されてもあまり痛くないような気がした。言葉の制約をかいくぐる作劇の巧緻というオブラートに包まれている気がした。

●冒頭に、何か書いてみたいと思った二作品は偶然どちらも竹中香子主演だったと書いたが、どちらも城崎国際アートセンター(KIAC)が会場だったのは偶然ではないかもしれない。今回の演劇祭の期間を通じて、KIACの発信には観客側へひらいていこうとするベクトルがハッキリ読み取れた。上記の感想シェアトークもその一環だったろうし、渡されたシンプルなモノクロのパンフレットに感想フォームのQRコードや「創作中に交流した大学生から寄せられた感想文」が印刷されていたこともそうだ。芝居を見て、一人称のテキストを書くことに、今でもなんらかの意味があるとすれば、主体に閉じず、こういう交流に乗っかることのうちにしかない。


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私は福島県にあるお寺で生まれました。
お寺という場所で育ったゆきがかり
そこにはたくさんの人がおとずれ

お金がない人、
生きるのが精一杯な人、
生きているのが嫌になった人、
家族が亡くなって憔悴している人、
これから新しい一歩を踏みだそうとしている人、

さまざまな
人生の局面を見せていただき
私にとって福島とは
あらゆる感情を感じさせてくれた場所

ときに残酷で、ショッキングであり
どうしようもなく憂鬱で、絶望の縁にたたされることも

それでもなお美しく、豊かで
幸せな場所でもあります。

2010年、出会った人々から
“幸せ”というテーマで写真をいただき
「福島=Happy Island」として一冊の本にまとめました。

2011年の震災から11年たった今、
魂ごと揺さぶられるような
大きなウェイクアップコールとともに

生きることに
もう一度、目をひらいて
みんなで進んできたのではないかと

今、この瞬間、
福島で感じる“幸せ”を、
あらためて、わけてもらって
写真とともに一冊の本にまとめました。

幸せだけじゃない、
けれど、やっぱり幸せ。

そういうことを教えてくれた場所
それを一冊にまとめようと思ったのがきっかけです。

10月2日は出版の記念イベントを行います。
ピンときた方は、ぜひお待ちしてます。

「Happy Island?」出版記念イベント

日時:10月2日(日)11:30~17:00
場所:正眼寺
ごりごりの浄化イベントを行いますので
ぜひ、一緒に新しい誕生を楽しみましょう!


10月2日(日)

『Happy Island? 出版記念イベント』

11:30~オープン

14:30~お話し・写真スライドショー

15:00~バースパフォーマンス(宇宙料金)

舞・黒澤優子

絵・野村浩平

音・歌 佐藤有美

17:00~昼の部終了

19:30~夜の部(予約制になります)


<出店>

飲食

・笑夢

・PLAY TIME CAFE

・ナチュラルパン工房「結(ゆい)」

癒し

・tarot & mini photo session

・セルフセラピーセッション&裏メニュ〜あり〼

・鍼灸マッサージ

アート&ファッション

・アップサイクルプロジェクト『天上のニット』

・ARCO Cristal

・絵 野村浩平

・newPEACE

・『Nobody Knows You.

DSC01615



ヒーリングセッション




短編小説「トウモコロシ」




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●豊岡演劇祭2022が開幕した。地元民として、この祭のことをあまり楽観的に見るわけにはいかない。なにせまだ2回目だ。これから大きく育っていくか、それともポシャるかは、まだまだ予断を許さないと思っている。私が今日出石で観た演目はメチャクチャ面白かったし、満員だったが、平日の昼間のせいか、出石の街中には人っ子一人歩いていず、少なくとも住民の中にお祭り気分は皆無だったように思う。

●遠方から期待に胸をふくらませて来てくれた観光客の方々の幻滅を思うと胸が痛む。豊岡のメインストリートはシャッター商店街だし、江原はそれ以上にゴーストタウンだ。出石は景観はいいが交通の便が悪く、今日も1時間に1本のバスを待つ旅行者らしき人を見かけた。

●こういうことをいってみたくなるのも、いい面だけにフォーカスを当てて宣伝しすぎているのではないかと心配になるからだが、宣伝のプロの戦略としては、今はまだ倫理的観点から誇大広告を反省するフェーズではないという読みがあるのだろう。いたらないところも当然あるが、それには目をつぶり、過剰なくらい褒めて持ち上げて人を呼ぶべきだ、実質はあとからついてくる、と思っているのだと思う。それはそうなのだろうが、嘘をつくことに慣れていないとヒヤヒヤする。


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●デュシャンの『泉』は20世紀初頭の美術展で展示されたからこそアートなのであって、同じものが道端のゴミ捨て場に置かれていたらそれはアートでも何でもない。つまり文脈含めて作品だということで、落合陽一が現代アートのこういう文脈偏重性を批判して《文脈のゲーム》に対する《原理のゲーム》という概念を提出したことはよく知られている。その気持ちはわかる。現代アートの文脈依存的な、ハイコンテクスチュアルな、したがってある意味相対的で鑑賞者を選ぶアートに対して、そういうものをすっ飛ばして誰にでも感覚的にわかる絶対的なものを称揚したかったのだ。しかし現代アートの文脈偏重はいわばそれまでの芸術の崇高性や美の理念への反動であり、理由なしに起こってきたことではないので、単に個人的な好き嫌いの感情で排斥していいものではないのだ。そもそも文脈とは伸縮自在なプロクルステスの寝台のようなものであって、少なくとも真のアーティストが現代世界に対する切実な想いから成した行為でさえあればどんなものでもその中へ包摂してしまうのである。『魔法の世紀』第2章第5節「『原理のゲーム』としての芸術」に挙げられている James Augre の Smell Blind Date など、なぜここに文脈がないと判断したのか理解に苦しむほど文脈依存的な作品だと私は思う。ほかに挙げられている例にも疑問がある。つまりこの分類は人によって定義がまちまちであることが第一に問題だといわねばならないが、それも文脈の伸縮自在性のせいである。

●というわけで、私は今でも現代アートをアートたらしめているのは文脈以外にないと思っている。落合陽一が反発したのはより深い意味においてはおそらく《文脈のゲーム》の《文脈》のほうではなく《ゲーム》と呼ぶしかない状況のほうである。浅田彰が大竹伸朗を「現代芸術が閉じ込められているシニカルなフレーミングのゲームの外へ」出て行く作家として高く評価したのは2006年のことで、したがってその頃のアートシーンには既に批評的評価の獲得とマーケットでの流通を見据えた打算の蔓延が常態化していたことがうかがえる。

端的に言って、何でもうまくフレーム(額縁という具体的フレームから美術館という制度的フレームにいたるまで)に入れて提示すれば芸術作品として流通させられる(まさしくフレーム・アップできる)という、アーティストを装ったデザイナーや戦略家のシニカルな手口が、そこには皆無なのである。
浅田彰「誰が大竹伸朗を語れるか 書かれなかったカタログ・エッセーに代えて」(『美術手帖』2006年12月号)

●話は飛ぶが、2018年11月、機会があって現代アートの関係者の方々数名と対話の場を持ったとき、かれらはここでいうフレーミング———つまり批評やマーケットを意識して既存のアートの系譜のしかるべき位置にうまくはまる「アート」を製造して売りに出すこと———が現代アート界にはびこっていることを、とくに憤るでもなく(と私には見えた)当然視しているようだった。それは、それで食っているかれらの「現場の肌感覚」のようなものだったろう。それを尊重したいとは思ったが、しかしそんなわけないだろうという思いも抑えることができなかった。当時の私の戸惑いはこの定例報告のいろいろなところに書いてある。しかしあれから4年近くを経て、そういう偽物のアートは徐々に淘汰されていくのではないかと、希望的観測ながら思わずにはいられない。2022年現在の私の肌感覚である。


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本日は
魚座、満月ですね。


順番としては

先に想念があって

やがてそれが

現実になっていく。


今回は魚座18度ということで

今までのダイナミクスを変える

舞台が用意されていて


12ハウスなので

まったく無意識なところで

次のステージへの意識変換がおきる。


反対側の太陽は

乙女座18度のウィジャ盤。


それはある意味

衝撃でもあるんだけど

それによって

自我が崩壊していると

意識の深い部分からのメッセージが

届きやすくなっている。


自分はいったい

何がしたいんだろう?

何が幸せなんだろう?


今までの満足とか幸せとか

それまでの基準が変わって、

意識改革がおきる。


太陽は6ハウスなので

仕事に関しても

今までやりがいと思っていたことが

本当にそうだろうか?


そもそもの基準が

変化することで、のち

現実方面がかわっていく。

IMG_8544

宇宙エネルギーの凝縮を手に入れたいとき。
粒揃いの輝き↓







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●今月の後半から来月にかけて、吐くほど忙しくなる予感があり、いまから戦慄している。データは着々と集まっているのだが、私はエクセル仕事が決して得意ではないので、どう集計し、どうまとめればいいのか、未だにサッパリわからない。しかし経験上、集まったデータをぼんやり眺めていれば何かしらの突破口が開かれてくるものだ。

●わからないことをやらなければならない。先日、受講したウェビナーでは講師の先生が綿密な下準備のもと何度も繰り返して頭に入っているような話を実によどみなく述べられていたが、これが眠いのである。とても耐えられなくて途中退室した。もしもロクに準備せず、訥弁で、その場で創造していくような講義であれば、何かしらの批判的な感情は生じたかもしれないが、少なくとも耐えられないほど眠くなるようなことはなかっただろう。

●なにごとも惰性でやってしまうのがいけない。私もたまに人前で喋ることがあるが、ネタ帳のメモを見て、この人たちには以前この話をしたから今回は別の話を、というような準備を以前はやっていた。現在はやめている。話者自身にとって新鮮であれば聞くほうが2回目だろうが3回目だろうが新鮮に聞けるのであり、話者自身が退屈していれば聞くほうは初めて聞く話でも面白くも何ともなく苦痛なのだ。


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